眠れるキャラクターたち

※ストックホルム日本人会の会報、2012年春号に掲載した内容です。

性格を意味する英語の「キャラクター」には「個性や特性」のほかに、「登場人物、役」という意味があります。このことばの語源であるギリシア語のcharaktӗrが「刻みつけられた印」だというのは、おもしろいと思います。性格が、「こども時代の体験の積み重ねによって決められた、わたしたちの世の中での役割」だと考えると、それは、遺伝的・素質的である以上に、「刻みつけられた」ものだともいえるからです。

こどもは、自分が親に、どう見られているか、どう扱われているかを敏感に察知しながら、自分が何者であるかを把握していきます。たとえば、親にあまり構ってもらえず、無視されることの多かったこどもは、たとえ実際には、親側の事情や問題で、不当な扱いを受けたとしても、それが親の問題だと判断する能力はないので、「愛される価値がない人間」という認識と役割を自分に与えるでしょう。性格を形成していく上で、そんな自己認識の積み重ねが大きな影響を及ぼします。

「次は男の子が欲しかった」両親のもとに生まれた末っ子の三女が、決して親に強制されたわけでもないのに、男の子のような髪型や服装を「自ら好んで」するようになり、性格も男の子っぽくなったり、病気のきょうだいのいるこどもがまったく手のかからない「素直ないい子」になるなどということは、よくあることです。

わたしたちは「刻みつけられた役」を自分の性格として、あまり疑うこともなく生きていくのですが、わたしたちの「本来の持ち味や個性」は、これだけに限定されるものではありません。「こう見えても、実は」という一面を誰でも持っているものだし、お酒を飲むと、ふだんより陽気になったり、涙もろくなったり、ハンドルを握った瞬間に「突然、人格が変わる」などといったこともありますが、それらは、たんに、ふだん眠っている人格(キャラクター)が、ひょいと顔を出しているのにすぎません。そればかりか、自分のまったく知らないキャラクターだって、わたしたちの中にはいるのです。
ミッドライフになって、自分の中で眠っているキャラクターたちを起こして表舞台に立たせてやる、つまり自分の性格の中にうまくとりこんでいくことは、人生を豊かにするばかりでなく、自分の出番を待ちくたびれたキャラクターたちの反乱から身を守るためにも大切なことです。ミッドライフ・クライシスは、家庭環境や文化的価値観の制限によって、「役を与えられなかった自分の一部」が、ミッドライフになって不満をもらしたその結果であることが、少なくないのです。

ミッドライフの心理学

※ストックホルム日本人会の会報2011年冬号に掲載した内容です。

スイスの分析心理学者ユングは、ミッドライフにおいて、人は、大切な人生の転換期を経験すると考え、これを肯定的な意味をこめて「生の転換期(独語:レーベンスヴェンデ)」と呼びました。

離婚、再婚、転職、離職、子供の巣立ち、肉親の死、家族や自分の病気や事故・・・などによる大きな環境の変化によって、人生のしきりなおしを迫られることもあれば、平穏無事な生活の中で、急に、今まで価値があると思っていたものが無意味に感じられるようになって走り続けられなくなってしまったり、これといった理由もないのに、抑うつ気分に悩まされることがあったりするのがこの時期です。

「出世頭として周囲からうらやましがられているエリート社員」や「何の不自由もない暮らしの中で幸せそうに見えた主婦」の自殺や失踪、社会的に立派な地位や身分のある男性が若い女性に“狂って”すべてを失う、良妻賢母の鏡のようだった人が、お酒やギャンブルや買い物にのめりこんで中毒になる・・・といった事例では、その人たちが、深刻な心の病にかかっていたというよりも、たまたまミッドライフ・クライシスの落とし穴に落ちてしまったといえる場合が少なくありません。

「クライシス」を経験してもしなくても、内的なこころのありかたに何らかの変容が生じるのは、ミッドライフにはとても自然なことで、この変容は、わたしたちの後半の人生に豊かさや充実感をもたらしてくれるものだともいえます。

ところで、このミッドライフが一体何歳ごろを指すのかというと、わたしはその範囲は、中高年を含む、30~70歳の広いものだと考えています。「三十にして立つ」とは孔子の言葉ですが、曲がりなりにも「おとな」として、精神的、経済的に自立したり、価値観や人生観をそれなりに確立してから、ミッドライフは始まります。その後は千差万別で、30歳で、仕事や家庭、「安定した生活」を手に入れたと思った矢先に、思いがけないこころの転換期を迎えて立ち止まる人もいれば、そのまま順風満帆に定年まで過ごしたあと、転換期が来ることもあります。

おとなへの通過点だった思春期が、誰にでも同じ時期にあったのに比べると、ミッドライフの転換期は、時期も内容も多様なのです。

ともあれ、ミッドライフは、「まだまだこれから!」という時期です。107歳で亡くなる直前まで現役だった、彫刻家の平櫛田中は、「六十、七十、はなたれ小僧 男盛りは百から百から」という有名なことばを残しています。(冒頭の写真は平櫛田中の書。)

人生の午後三時

※JCZ ジャパンクラブ・チューリッヒ、2010年6月号の会報に掲載した内容です。

午後三時

自分の一生を一日として考えると、今、何時ぐらいだと思いますか? もちろんわたしたちには自分の一生の長さはわかりませんし、もしかすると明日にもその終わりがやってくるかもしれないのですが、そういう現実的なことはさておいて、心理的な感覚として考えてみてください。

「人生の午後三時」は、ユングの著作の一部が1956年に邦訳出版されたときの(原題とは無関係な)表題です。(同書は後に(原題に忠実に)「無意識の心理」と改題されて復刻出版されました。〔高橋義孝訳、人文書院1977〕)午後三時といえば、一日の仕事を大体終えて一息ついているお茶の時間。そろそろ夕食のことを考え始めたり、さらにそのあとの(日本なら)お風呂に入って寝るだけという、まったりしたくつろぎタイムも想像でき始めるころですね。

ユング心理学は、時に「中年の心理学」と言われますが、「中年期」はまさに「人生の午後三時」。これまで忙しく、勉強したり、仕事をしたり、家庭を築いたり・・・と、大人として、社会人としてがんばってきたことがそれなりに形になり、なんとなく先のことも見えてきて、ほっと一息つける時です。「もうひとがんばり」も残ってはいますが、ちょっと立ち止まってみることも許される時なのではないでしょうか。

許されるどころか、望んでもいないのに強制的に立ち止まらされることだってあります。自分や家族の病や事故、パートナーや肉親の死、解雇や離婚・・・などによって、これまでの生活を続けることが現実的に、あるいは心理的に不可能になってしまうこともあるでしょう。そんな思いがけないあれこれが起こりやすいのもこの時期なら、特別の出来事や悲劇があったわけでもないのに理由もなく、ふとむなしさを感じたり、憂うつな気分が続くことも、この時期には珍しくありません。

自ら好んで「ちょっと一服」するにしろ、否応なく「強制休止」を強いられるにしろ、「人生の午後三時」が、残りの一日(人生)をどう過ごすかの鍵になるという点では変わりがないように思えます。

「人生の午後三時」からあとの時間は、わたしたち次第です。というのもわたしたちは、それ以降、どうすべきかを教えられていないのです。それまでの人生は、親や周りや社会の期待に合わせたり合わせなかったりして進んできました。わたしたちは地図を手渡され、「こっちの道を行けばこのあたりに着くだろう。」というのが大体把握できていたのです。でも、台本どころか地図さえないのが、現代社会に生きるわたしたちのここから先の人生といってもいいかもしれません。

ユングは、中年期において人は、重要な人生の転換期を経験するとして、この時期を「生の転換期」(独: Levenswende)」と呼びました。それは他の誰のためでもない、わたしたち自身のための時間の始まりなのです。

※この記事が掲載された「エーデルワイス」誌、実際のPDFページはこちらへ。(内情はいっしょ。読み込むのに時間がかかります。)

結婚の深層

※JCZ ジャパンクラブ・チューリッヒ、2010年3月号の会報に掲載した内容です。
ゼウスとヘラ
一昔前に” Men Are from Mars, Women Are from Venus”という本がベストセラーになりましたが、男と女って、まさしく火星から来た人種と金星から来た人種じゃないかと思えるほど違いのある“異星人”ですよね。そんな異星人同士が、同じ星の、しかもひとつ屋根の下でいっしょに暮らすなんてことは、どう考えても難しいに決まっているのですが、わたしたちはふつう、そんなことはそれほど心配せずに結婚してしまいます。それどころか、結婚というものに「なんとはなしに」期待さえもってしまうものです。実際にこれだけ多くの結婚が不幸な結末を迎えているのを目の当たりにしても、わたしたちは、「なんとなく」、「わたしは違う」「この人は違う」「こんどは違う」と無邪気に信じることができるのですから不思議なものです。

ジェイムズ・ホリス(アメリカのユング派分析家)は、結婚ほど無意識的な重荷を負わされている社会概念は、他にないと言っています。新郎新婦が結婚式でみんなに祝福を受けているとき、本人は意識していなくても、無意識には「この人がきっと自分を幸せにしてくれる」とか「この人は、ずっと自分のそばにいてくれる」という途方もない期待が潜んでいます。そして、遅かれ早かれこの無意識の期待が裏切られて「昔のアナタは、こんな人じゃなかった!」ということになるのですが、実のところ相手はもともと“異星人”なのですから、結婚前にわかっているつもりだった相手というのは、自分のつくっていた(無意識に期待していた)イメージにすぎないのです。

おとぎ話の中では、「王子様とお姫様は結婚して、それからずっと幸せに暮らしました。」というハッピーエンドがおきまりですが、現実ではそんなことはまずありえません。でも、結婚の本当の醍醐味は、むしろここから始まるともいえます。関係の中で生じる葛藤や摩擦を通して、相手はもちろん自分の醜態を見ること、幻滅や怒りや悲しみなどの否定的な感情に直面すること、そうしながらなおかつ、受け入れがたい異質なものに自分を開いていくこと、こうした“苦行”を通じて、わたしたちは自分を広げ、自分自身や世界についてもっと知ることができるという意味で、結婚は、自分を成長させてくれる絶好の器となるのではないでしょうか。

川の中で、近いところに立てられた2本の杭(似たものカップル)の間に張られた網は、破れにくいが獲れる魚の数は少ない一方、互いに離れた杭の間の網は、破れやすいけれど、獲れる魚は多い。どこかでこんなたとえを聞いたことがあります。「ツーといえばカー」の関係もいいですが、異星人カップルや国際カップルこそ、大漁の可能性を秘めているのかもしれません。
グッゲンビュール(スイスのユング派分析家)は、結婚は万人のためのものではないとした上で、それでもあえてそれを選んだ者は、いわゆる「幸福な結婚」を求めるよりも、結婚を救済をもたらす道のひとつとしてとらえるべきだと言っています。ダンテが地獄を通らずしては天国に達しなかったように、結婚も苦しみや葛藤を経てこそ、深い実存的満足を与えてくれるものになるのだと。

表題部の写真は、ゼウスとヘラ。「聖なる結婚」とされているふたりの結婚生活も闘いに明け暮れた壮絶なものでした。

※この記事が掲載された「エーデルワイス」誌、実際のPDFページはこちらへ。(内容はいっしょ。読み込むのに時間がかかります。)

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